2018年10月16日

人を見た際の左右の反転の判断方法の実験

今回は、2つの人の画像を見た際に、その2つが左右が逆になっているかどうかの判断方法についての実験の提案でございます。

端的に言って、自分の立場で左右を判断した際に、2つの人の画像それぞれの中での相対的な位置関係(例えば、挙げている方の手は、下げている方の手より右にあるなど)で判断する人と、自分の体の中心線より右か左かで判断する人のどちらが多いかの検証実験でございます。

普通は相対的な位置関係で判断するだろうという気がしますが、自分の鏡像を見た際に、自分の体の中心線より右か左かの説明(人と文字で判断の仕方が変わるという説明)に納得する人もいるようですので、一応実験の提案です。

その図が↓

mirrorhuman.png
ちなみに2つの画像は同じものになります。

実験手順
1.まずは、視野検査で、図の状況で、赤いランプに焦点を合わせた際にも、2つの画像全体が見える人を被験者に選定する。
2.被験者に、目の焦点の動きを調べるゴーグル(確かそんなものがあったはず)をつけてもらう。
3.被験者に、「赤いランプを見たまま、2つの人の画像を比べてください。左右は逆になっていますか?」と質問する。
4.手順3で「いいえ」と答えた人に、「先ほどの比較の基準で答えてください。右の画面に映っている人の挙げている方手は下げている方の手より右にありますか?左にありますか?」「左の画面に映っている人の挙げている方の手は下げている方の手より右にありますか?左にありますか?」と2つ質問する。
5.目の焦点が赤いランプ付近から外れた被験者をデータから外す。

手順5は、自分基準の左右を赤いランプを基準にした左右と同一とみなせる場合に限る意図になります。

自分の立場で左右を判断して、2つの人の画像それぞれの中での相対的な位置関係で判断した人は、(余程特殊な人や質問の意味が分からない人等を除けば)手順3の質問で「いいえ」と答えて、手順4の質問では共に「右」と答えることと思います。

自分の体の中心線より右か左かで判断した人は、(余程特殊な人や質問の意味が分からない人等を除けば)手順3の質問で「はい」と答えると思います。(自分の体の中心線と比べて、一方は全体が右で、一方は左だからになります)

この2つの人数を比べるというわけです。

個人的には、(実験前に余計なバイアスを掛けたりしない限り)前者の方がそりゃ多いだろうと思うのですが、結果は如何に。

もしも前者の方が多ければ、自分の鏡像の場合には突然前者が0になって、鏡像の視点で判断する人と後者に切り替わるなんてことがあるのか?自分の全体像が見えないなんて理由で、ある程度全体像が見えている鏡像についての判断が?(先ほどの「自分の体の中心線より右か左かの説明」はこの話)

少なくとも、0はない気がするのですが・・・。

ついでに、人であるのかどうかが関係するのかを見るために、人を文字やなんだかよくわからないような適当な(決まった左右等の方向の概念がない)図に差し替えた物でも実験をして、結果を比較してみると良いと思います。

赤いランプで視点を固定する影響がないとも限らないとは思いますので。

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2018年10月09日

「基本」と「例外」は客観的に決まるのか?

偶に思う非常にくだらない集合論っぽい話をします。

「基本的に」とか「例外的に」なんてことを言って、物事を分類することがあると思いますが、あれは客観的な分類なんでしょうか?

辞書的な意味でいうとそうなのかもしれませんが(正直、辞書でざっと調べたがよく分からない、苦笑)、あまり細かいことは気にせずに行きましょう(笑)。

さて、

例文1
「ラーメンは基本的に好きだが、例外的に塩ラーメンだけは全て嫌いである」(決して私が塩ラーメンを嫌っているわけではありません、笑)

「基本的に」と「例外的に」を使ってこれと客観的に同じ状況を表す別の表現ができるかどうか?

例文2
「ラーメンは基本的に嫌いだが、例外的に塩ラーメン以外のラーメンだけは全て好きである」

「塩ラーメン以外のラーメンの方が塩ラーメンより多いだろう!」というツッコミはおいといて(笑)、
例文1、2共にベン図で表すと

ramen1.png

要は、どちらも客観的には

塩ラーメン:嫌い
塩ラーメン以外のラーメン:好き

というものの表現でしかないと思います。

でも例文2についてのベン図はなんかこっちぽい気がしてしまうという不思議(笑)

ramen2.png
塩ラーメン=「塩ラーメン以外のラーメン」以外のラーメン(笑)

まあ、普通は例文1の方でしょうね・・・塩ラーメン以外のラーメンの方が種類が多いですからね・・・ラーメンの種類の分類の仕方にもよる気もしますが・・・多分(笑)

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posted by ゴマフ犬 at 21:49| Comment(0) | 数学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月03日

『鏡映反転』高野説について5〜実物とそれ以外の実物の鏡像の比較の扱い〜

以前の記事それより最近の記事の追記で、高野説で説明できるかどうかが疑わしいものを挙げましたが、もっと簡単な例がありましたね。

その図がこれ

mirrorexx2-1.png

実物(文字「F」)とそれ以外の実物(文字「F」)の鏡像との比較。(この比較を場合1と呼ぶことにしましょう)

「鏡像の基になっていないものと比較したってどうしようもないだろう!それで反転を認識していったい何が不思議なんだ!」

と思った人はいませんでしょうか?それは私が高野説において、実物としての(位置や向きも含めてある程度は正確な)イメージではない表象(記憶上のイメージ)を用いた表象反転や、切り抜いた「F」の表面と、裏面の鏡像の比較実験を見た際に感じたことです。(当たり前に思えるような判断に至る人間の意識構造(脳の構造とそれに関連した働き方)の解明をしているとかならまだしも、そういう内容ではないと思います)

そしてこれらは鏡映反転の問題を扱う際には説明できなければ適切な説明ではないというような扱いが高野先生の著書『鏡映反転』ではなされているかと思います。
それがどんなに当たり前で特徴のないような説明に思えるものであっても・・・。

そうであるなら、(高野説の主張に従えば)この場合1も説明できなければいけないと思います。

ちなみに、この場合1については、鏡像と実物Bを両方とも観測者基準のおおよそ同じ座標系で判断して、普通は左右が逆で上下がそのままと判断すると思います。

そんなわけで、これが高野説で説明できるかどうかを見ていきましょう。(ちなみに高野説については、やや古いため、『鏡映反転』執筆時とは違うと思われる部分も見らますが、こちらでも見られます。)

視点反転
まず、視点変換はしていない(厳密には多少あったり、系によっては視点変換しているともとれるとは思いますが、高野説上でそう扱うものではないと思う)ので、視点反転ではないでしょう。

表象反転
記憶表象は使っていない(厳密には、実物Bや鏡像を認識してから、反転を認識するまでのタイムラグを思えば、記憶ともいえそうな気もしますが、高野説上の記憶表象ではないと思う)ので、表象反転ではないでしょう。

光学反転
すると残りは光学反転?
ここで、光学反転の説明の参考に、切り抜いた文字「F」の表面(観測者の方を向いた面)と、裏面(鏡の方を向いた面)の鏡像の比較における高野説の説明を見てみましょう。

「多重プロセス理論では、説明は単純である。実物が見えていて、鏡像と直接見くらべることができるという状況は、光学反転の状況である。切り抜いた「F」は、前後方向が鏡面と垂直なので、前後が光学的に反転し、鏡のなかには、こちらを向いていない裏側が見える。一方、左右方向は鏡面と平行なので、光学的には反転しない。そのため、どちらの場合にも、左右反転は認知されないのである。」(『鏡映反転』附章p.73、ちなみに、「多重プロセス理論」とは高野説のこと。「どちらの場合も」というのは、正しく見える「F」の面が観測者の方を向いている場合と鏡の方を向いている場合かと思います。)

鏡像の基になっていない観測者の方を向いた面も光学反転の状況かどうかという意味では実物扱いらしい・・・。鏡像と裏面を含む実物全体の比較でもないのに・・・。(実物の範囲を自由に設定してよいなら、ほとんど何でも「光学反転の状況」になってしまう気が。視界に何かの実物さえ入っていれば、それと鏡像の基になった実物を合わせて一つの実物とすれば良いのでは?・・・。)

ちなみに、私が図で示した状況(場合1)から、実物Bを文字の上下を揃えて実物Aの裏に張り付けて、観測者と鏡の間に平行移動した上で、実物Bの面と(実物Aの面の)鏡像を比較させるとします(これを以下、場合2と呼ぶ)。これは、切り抜いた文字「F」の表面と、裏面の鏡像の比較と同じような状況(何を一つの物体とみなすかにもよりますが、どちらも比較対象となる面を含む実物自体は鏡像の基でも、その面自体はそうではない)になっていて、この高野説の説明を適用してしまうと、場合1と比較対象の向きも含めた形態がほぼ同じような状況なのに、上下も左右も反転しないになってしまう気が・・・。

それは取り敢えずおいておいて、ともかく、光学反転で認識される反転は、鏡面に垂直な方向ということかと思います。

しかし、場合1での反転の方向(つまり左右)はそれとは違うでしょう。よって光学反転でもないでしょう。

つまり、この反転は高野説が挙げる3つの反転のどれでもないと思います。(場合2も同様)

勿論、実物としてのイメージではない表象を用いた表象反転と似たようなものであって、そこから類推するのは比較的簡単かと思います。
しかし、その表象反転も具体的な状況を挙げられれば、そこから推測するのは比較的簡単かと思います。

そして、実物Bは高野説のいう記憶表象ではないでしょう。

表象反転の原理が、光学変換と表象方向の乖離であるなら、この場合1、2の反転の原理は光学変換と(鏡像の基になっていない)実物方向の乖離でなければいけないのでは?

つまりは、「実物方向の乖離」という新たな説明原理が必要ということではないのか?

そして、そういった説明をした場合、高野説の真似をするなら、それは「事実上、4種類目の鏡映反転が存在することを認めたことになる。」(『鏡映反転』附章p.102参考)と言われるようなものではないのか?

まあ、「表象方向の乖離」を「鏡像と比較するものの方向の乖離」とでも修正すれば、《これを理由には》そうは言えなくなるとは思いますけど・・・。いや、物理的回転説(と高野説が主張したもの)が、仮想的な観察者を導入したことについて、

「これだけ大きく違っている以上、「文字の鏡映反転と観察者自身の鏡映反転を同じ原理で説明した」とは、到底いえないだろう。」(『鏡映反転』附章p.54)

という考えを踏襲するなら(それについてはこちらの追記)、比較対象が実物(実在)か記憶表象(仮想)かの違いによって、別の原理と言わなければならない気が・・・。

ちなみに、「これは鏡映反転の問題ではない」と主張するのであれば、以下の記述はどうするのでしょうか?

「しかし、観察者が鏡に横対しているときの左右反転も、文字が鏡に正対しているときの左右反転も、いずれも、「鏡に映ると、左右が反対に見える」という現象である。その点では、観察者が鏡に正対しているときの左右反転とまったく変わりがない。しかも、鏡映反転をめぐる過去の議論のなかでは、小亀が排除した反転現象は、みな鏡映反転として、議論の対象になってきたのである。
自分が提案した説明原理では説明することができない現象を問題から除外してしまい、説明できる現象だけを説明して、「問題を解決した」と主張してよいのであれば、どの理論が正しいかを論じることには意味がなくなってしまうだろう。」(『鏡映反転』附章p.43)

「場合1や場合2なんて、議論の対象になっていない。」というなら、高野説の実験のように、比較対象を記憶表象に指定された認識、特に鏡映文字を鏡に映した場合の非反転感なんて、議論の対象になっていたのだろうか・・・?そもそも、「議論の対象」になっているかどうかで鏡映反転の問題の範囲を決めるのなら、今から場合1や場合2等が議論の対象になれば、そのとたんに高野説は「問題を解決した」はずの状況から「問題を解決出来ていない」状況へと変質するのだろうか・・・?

どのみち、どの範囲の問題を扱っているのかを明示する必要はあると思います。特に他説に対してそんな批判を行うのであれば・・・。

実物としてのイメージではない表象を用いた表象反転や光学反転というほとんど当たり前のようなものまで含めて、全て自前で(高野説の区分上、新たな原理を導入することなく)説明できなければいけないかのように扱った(そしてその上での他説の批判をした)結果、自分の首を絞めることにはなってはいないだろうか?(私がここで行った批判は、高野説が他説に対して行った批判をほとんど真似ただけのつもりです)

私自身は、余計な混乱を招いているだけだと思うのですが・・・。続きを読む
posted by ゴマフ犬 at 14:25| Comment(0) | ちょっとした科学の話など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする