2016年12月23日

『鏡映反転』高野説について3〜座標系の単一性〜

再び冬眠破りかという感じですが、私の仮説の修正点にも若干絡む話なので、再び目覚めます(笑)。
あまり余裕がない(かつ仕事でもない)のでざっとになりますので、その程度と思って読んでいただければと思います。
何時になるかはさておき、余裕ができれば後で修正するなり、よほどひどければ削除するかもしれませんが。

今回は前回の実験の予測一意性などにも絡む話なのですが、高野説の座標系の単一性について。
どういうことかといったら、高野説では、実物や鏡像の左右などの方向を判断する座標系はそれぞれ単一のものであることを前提としていると思うことについてになります。

例えば、高野説の実験には、鏡映反転の認識の際の方向確認する目的で、リボンを付けた腕の方向を問う実験があると思いますが、これは実物だったら実物のリボンを付けている腕の方向は、鏡映反転の(左右が逆になったかどうかの)判断の際と単純にリボンを付けた腕の方向を問われた際で同じであることが前提になっているのではないかと思うことです。

この前提は、それに基づいて他説の批判が多数なされている、高野説の論展開の上ではかなり重要な部分だと思います。

でも、この前提がそもそもおかしいのではないかということです(これも高野先生にメールでお伝えしたことの一つになります)。

どういうことかといったら、同じ実物や鏡像についての方向であっても、その目的によってバラバラのものになることがあるのではないかということです。

例えば、ある人(Aさん)と直立して(体をひねったりしないで)向かい合っている人がいるとしましょう。そしてその左腕にリボンを付けているとしましょう。
このときのその人にリボンを付けている腕は左右どちら側にあると判断するか。

このとき、Aさんは体の部位を見分けるという高野説にもある目的で、左と判断したとしましょう。
さて次です。
Aさんに向かい合っている人の右手を自分の右手で触ってもらいます。その後、同じ右手で、その向かい合ている人の左手を触ってもらうとします。この時でも向かい合っている人のリボンを付けている腕は先ほどと同じく左と判断しているのか?

例えば、Aさんに「向かい合っている人の左腕を触るためには、あなたの右手を右と左のどちらに動かせばよいですか?」と訊くと、左と答えるのかどうか?恐らくほとんどの人は右と答えるのではないでしょうか?
この時でも向かい合っている人のリボンを付けた腕を左側と判断しているのかどうかということです。(ここで、リボンを付けた腕の位置を訊かれてどう答えるかという意味ではなく、右手を右に動かせばよいと判断した基準になった位置(方向)がどういったものかということです。つまりは、右手を右に動かせばよいとの判断の構造を表す際に用いる座標系等の基準はどういったものであるかということです。)

仮にそうなら、左右などの方向で腕を動かす方向を判断する際には「左側にある腕を触るためには右手を右に動かせばよい」とかいう判断をすることになりそうですが、普通、そんな形で判断するのかということです。
そもそも、自分の右手で相手のリボンを付けている腕を触るという行為は同一の座標系をとるなら、両者の座標値を重ね合わせることになると思いますが、この両者で全く別々の方向の基準をとっていたのではややこしいことこの上ないのではないかと思います。

要するに、それぞれの方向の基準は、その目的によってバラバラに複数存在し得るのではないかということです。

何と言いましょうか、この辺は、単に「左」とか「右」と言ってしまうと「何を基準にして」とか「何と比較して」とかいった色々な情報が欠落していて、リボンを付けた腕は左右のどちらかなんて言うのは、その言葉をどう捉えるかといった言葉の意味の問題ではないかと言いましょうか。
リボンを付けた腕を左側と答えたからと言って、その判断はその判断の目的によって(傾向としても)変わり得るものではないかということです。そもそも同時に複数の基準が存在することだってあるのではないかということです。

そういうわけで、リボンを付けた腕の方向を問われた際の方向の基準と鏡映反転の認識の際の方向の基準というのも、ただの位置の認識と実物と鏡像との比較という少なくとも概念上は違う目的のものについてのものである可能性があって、単一のものであるという前提の上で議論するのはかなりリスクが高いのではないかということです。

あまり余裕がないので、この前提を用いた他説の批判の例だとかは、興味があれば各自確認ということにさせていただきます。

さて、冒頭で述べた私の仮説の修正点についてですが、鏡映反転の判断の際の実物や鏡像に対する座標系も単一ではなく同時に複数(というか多量)と考えたほうが良いのではないかと思うことです。(←以下の内容は追記で早速修正しております(苦笑))

左右などの方向の判断を単一の座標系を用いて表すためには、実物だったら実物の左右などの位置関係を認識している各点に対して具体的な座標値(幅を持ったものか完全に点であるかは別にして)を割り当てられなければいけないと思いますが、この左右などの方向というのは人の感覚上のものであるため、その保証が特にないと思ったわけです。

例えば、3点A,B,Cがあったとして
「AよりBは左にある。BよりCは左にある。CよりAは左にある。」
なんて認識が同時にあるとすると単一の座標系では、左にあるものほど左右の座標値を大きくとるとすると、左右の座標値の大小関係は
A<B<C<A
となってしまって矛盾してしまうと思うわけです。
そしてこういう認識があり得るのかといったら恐らくあり得ると思います。その例が不可能図形(ざっくりいうと実際にはあり得ない立体が描かれているように見える図形ってことで良いと思います)ってやつの一部でないかと思うわけです。

確実に単一の座標系で表せるのは2点の位置関係についてだけであって、それぞれの2点についての多数の座標系を単一のものであるかのように錯覚して判断しているような状態が感覚的な方向や形状についての認識なのではないかということです。

つまり、上の3点A,B,Cの例でいうと、
「ある座標系ではA<B。別の座標系ではB<C。別の座標系ではC<A」
これなら同時の認識であっても別に矛盾しないのではないかということです。
もっとも、この場合には同じ点に複数の座標値が割り当てられて、それぞれの情報がごちゃまぜになっている状態での認識だったりすると思いますが、それが普通の認識ということもあり得るのではないかということです。(いよいよ複雑っぽくなって参りました(笑))

これなら、不可能図形の認識も(全てというつもりはありませんが)説明できるのではないかと思います。
思わぬ副産物ってやつです(笑)。

ちなみに私の仮説の適用例に書いてある座標系(軸)は、多数の座標系のを一つに近似したものとして見ていただければと思います。

以上です。続きを読む
posted by ゴマフ犬 at 12:36| Comment(0) | ちょっとした科学の話など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月30日

かけ算の順序性

少し前に、冬眠するといっていた気がしますが(笑)、ちょうど気になる記事を見たので、それについて書いておこうと思います。

その記事がこちらになりますが、
「長いすが6つあります。1つのいすに7人ずつすわると、みんなで何人すわれますか」
という問題で、式を「6×7=42」と書いたら、7人ずつが6つ分という発想で「7×6=42」としなければバツだとされたものだそうです。

勿論、数学的には積の順序なんてどうだってよいのであって、間違いなんてことはないはずですが、気になったのは、記事にあるように「初期段階にかけ算の考えをなじませるための手法としてはいい」といった主張も分からないではないのですが、○×を付けるようなものとして出すような問題だとは思わないのですよね。

そもそも「かけ算の考えをなじませる」意図があっても、この問題の考え方自体が「7人ずつが6つ分」と考えなければいけないようなものではないはず。

「6×7=42」(6が7つ)が自然に思えるような考え方を例に挙げれば(面倒なので図は書かない(笑))、

@「1つのいすに7人ずつすわるので、人の数はいすの数の7倍になる。よって答えは椅子の数の6の7倍で、
6×7=42」

A「(いすの座る場所に1〜7までの番号を振るなどして、)それぞれのいすの1番の場所に座っている人は全部で(いすの数と同じで)6人、2番から7番の場所に座っている人も同じでそれぞれ6人、6人が7つ分なので、6×7=42」

単位にこだわるなら、それぞれ単位付きで式を書くと

@6[脚]×7[人/脚]=42[人]

A6[人]×7=42[人]
それぞれの番号に座っている6[人]の導出にもこだわるなら、
6[脚]×1[人/脚]×7=42[人](6[脚]×1[人/脚]=6[人])

と書けると思います。
[人/脚]の単位はあまりなじみがない気がしますが、この単位がついている7や1をいすの数[脚]から人の数[人]への変換の数(または、いす1脚当たりの《該当する》人数)と考えればこうなるかと思います。

まあ、7人ずつが6つ分という発想の方も
7[人/脚]×6[脚]=42[人]
と[人/脚]を使って書けるかと思いますので、そこは気にすることでもないでしょう。

よって、「かけ算の考えをなじませる」意図であっても、「6×7=42」を間違いとして扱う妥当性が特にない気がいたします。
単に、この問題を「7人ずつが6つ分」と考える人が多いというだけの話で・・・。

そうはいっても、採点者が「これが正解でこれは不正解だ」と言ってしまえば、そう扱われてしまうのが試験ってやつだったりすると思うわけでして・・・。(特に受験などで反論の機会がない場合)

所詮は試験なんてものは、正しかろうが間違っていようが採点者のご期待通りに答えられるかをみるようなものだと思うわけでして、それだけに採点する側にはしっかりして頂きたいと思うわけですよね。

試験仕様と学問仕様で考え方を使い分けるのも面倒でしょうし、何より、試験の正解だからと言って、間違ったことを「正しい」と思い込んでしまうのは危険なことだと思いますので。(そしてその思い込みが強いほど、試験でその間違った「正解」にたどり着きやすく、その得点によって、《学問的に》評価されやすくなる気がする点も・・・。)

そういった意味で教育ってやつは中々怖いものだと思うわけです。
慎重にせねばということです。

珍しく時事ネタ(?)となりましたが如何でしょう?
posted by ゴマフ犬 at 21:57| Comment(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月30日

『鏡映反転』高野説について2〜実験結果の予測の一意性〜

さて、久しぶりの更新です。
前回の記事でいったん終わりのつもりだったのですが、前回と同様の優柔不断な心境により(笑)、今回も再び、高野説、及び本『鏡映反転』や2007年の論文"Mirror reversal Empirical tests of competing accounts, Yohtaro Takano; Akihiro Tanaka"についての記事であります。

今回は高野説の実験における予測の一意性について。

『鏡映反転』や2007年論文に記載されている高野説の実験(大雑把にいうと、人以外の主要な条件を固定したうえで、人という条件をランダムに変えていった際の、鏡映反転の認識の割合を調べる実験だと思う)は概ね以下のような形になているかと思います。

1.各実験における、各説の予測を示す
2.実験結果がそれらの予測とどの程度一致するかどうかにより、各説の妥当性を判断する
そしてその結果は、
・他説はことごとく実験結果と一致しない
・高野説はほとんど一致する
・高野説は、一致しない場合であっても大きくは外れず、理論外の要因による合理的な説明により補正できる

以上により、高野説の正しさが立証された、というような論展開になっているかと思います。

この実験やその予測と解析に対する私の見解はというと、正直な所、予測、解析部分に論理的な欠陥があって、それを基にした主張に妥当性を見いだすことが難しいものになっていると思います。
実験における上記論展開が厳密に成立するためには、各説の予測が一意的(一通りにしか導けない)なものでなければならないと思います。
つまりは、少なくとも、各説と既存のすでに正しいと認められているものが正しければ、必ず言えるもの(必要条件)でなければならないと思います。(必要条件ではあっても、考慮に入れる部分を変えれば、それとは矛盾した予測が得られて、一意性がないという場合も考えられると思いますが、そういった場合は、実験結果以前に、その説自身などが既に論理的に矛盾していると思いますので、そういった場合はとりあえずおいておくとして、以下、一意性については、主に、必要条件であるかどうかといった必要性について述べていきたいと思います。)
もしくは、もう少し厳密性を緩和して、一意的ではなくとも、他の捉え方がよほど不自然に思えるものにしかならないとかなら、証明とまでは言わなくても、それなりの説得力を持つものになるとは思います。(この辺は、受け取り手の主観に依存する部分が大きいとは思いますが。)
そして、高野説の実験における各説の予測が上記条件を満たすかというと、私が見た限りでは、厳密な一意性の方は満たすと思えるものが存在せず、厳密性を緩和した方の条件にしても、他説においてはほとんど満たさず、自説(高野説)においても、一部においては満たさず、むしろ不自然な予測に思えるものになっていると思います。

要するに、上記の結果(他説はことごとく実験結果と一致せずに、高野説はほとんど一致する)は、基本的には、どうとでも予測できるような部分で、ことごとく高野説にとって都合の良い解釈をとった結果でしかないと思うということです。

もっとも、既存のすでに正しいと認められているものの全てを私が知っているわけではありませんし、どこからどこまでが各説自身で、どこがそれを基にした解釈として扱っているのかがよくわからない部分もありますので、ひょっとしたら一意性があるといえるものも存在するのかもしれませんが(仮にそうなら、そういったものを明示したうえで予測を示す必要がある気はしますが)、その上で、高野説の実験における、予測の一意性、主に、その内の《必要条件である》という条件を満たすかどうかについて今回は示していこうと思います。

全て書こうと思うと、本当にすべての予測について言わなくてはいけなくなってしまいそうで、大変なので、他説については、以前の記事(こちらの追記部分とこちらの「左右軸劣後説」なるものの批判について)で示したものに基本的に止めるとして、高野説自身の予測について、一つ扱おうと思います。

ここで扱う実験結果の予測は、観測者の記憶にない文字を鏡に映した際の鏡映反転の認識についてのもの。
もう少し詳しく言うと、観測者の後ろに、ヒエログリフ(被験者の中に知っている人がいなかった主張する文字)が書かれたものがあって、それを鏡に映して観測者に見せて、左右、上下、前後のそれぞれの反転を、Yes,No,I don't knowの3択で判断してもらうという実験だと思います(ロシア語のキリル文字についてのものもあると思いますが、ロシア語を知っている人も含まれていると思いますので、ここでは除外)。
この実験についての高野説の予測は、2007年論文と『鏡映反転』ではやや記述が異なると思うので、どちらも示すと、

2007年論文
"The prediction of the MP hypothesis depends on whether the participant possessed the memory epresentation corresponding to the presented mirror image or not because it assumes that a reversal judgement is made by comparing the mirror image to the memory representation. This comparison can be made only when the memory representation is available. How will the participants respond to the reversal questions when the memory representation is unavailable? They might answer “I don’t know”, or else their answers might be distributed to “Yes” and “No” roughly evenly (Prediction MP2–7)."

大雑把に日本語で述べると、高野説("MP hypothesis")によると、この場合は、その文字が観測者の記憶にあるかどうかに依存するが、多くの観測者にとっては記憶にない文字なので、ある人は“I don’t know”と答えて、他の答えは、"Yes"と"No"が大体等しく("roughly evenly"に)分布する、ということだと思います。

『鏡映反転』(P.141)
「知らない文字の場合は、記憶の中に表象がないので、「左右は反対になっていますか?」と訊かれても困る。「鏡に映っているのだから、左右は反対になっているにちがいない」と推測して「はい」と答えるか、「比較ができないのだから、反対になっているとはいえない」と考えて「いいえ」と答えるか、あるいは素直に「分かりません」と答えるか、いずれにしても、答が「はい」か「いいえ」に収束することはないだろう。」

実験結果も先に示しておくと、2007年論文には、これに関して正字(正しい文字)と鏡映文字(正しい文字を鏡に映したときに見える形)の2つのヒエログリフに関する実験を行っているかと思いますが、それらの実験における、上下、左右、前後それぞれの反転についての被験者52人中の割合を(ヒエログリフ1(正字))(ヒエログリフ2(鏡映文字))の形で列挙すると
上下反転(Yes:7.7%,No:50.0%,I don't know:42.3%)(Yes:7.7%,No:63.5%,I don't know:28.8%)
左右反転(Yes:36.5%,No:21.1%,I don't know:42.3%)(Yes:30.8%,No:36.5%,I don't know:32.7%)
前後反転(Yes:13.5%,No:46.2%,I don't know:40.4%)(Yes:11.5%,No:55.8%,I don't know:32.7%)

2007年論文の方は、左右、上下、前後のどの予測であるのかがはっきりしませんが、これは高野説の予測と一致するという論展開をしているかと思いますので、上記予測は左右についてのもののみだということかと思います。

両者の《予測》がいつ(実験前か後かなど)どういった状態(実験前でも《経験的に》ある程度結果が予測できた状態かどうかなど)でなされたのかと言った部分が、2007年論文や『鏡映反転』には示されていないと思いますが、2007年論文の方は、"Yes"と"No"が大体等しく分布すると言っているのに対して、『鏡映反転』の方では、単に"Yes"か"No"に収束することはないだろうというにとどめる形に変更されているかと思いますので、『鏡映反転』の予測の方は、実験結果をすでにある程度は知った上でなされた《予測》ということかと思います。(もっとも、こちらは予測とは書いていないと思いますが、位置づけとしては同じだと思う。)
ならば尚更、その予測が、少なくともある程度は、《一意的》といえるようなものでなければ、直感的にであっても、妥当性などいえるものではないのではないかと思います。

その上で高野説の予測の2つの記述についてみていくとしましょう。

まずは、2007年論文の方について
「ある人は“I don’t know”と答えて」というところは、絶対とは言わないまでも、まだわかるのですが、「他の答えは、"Yes"と"No"が大体等しく("roughly evenly"に)分布する」これの根拠がどこにあるのか?
例えば、「観測者にとっては記憶にない文字なので、観測者がうっかりミスをする可能性や質問の意味を勘違いする可能性などによる多少の誤差を除き、全ての人が“I don’t know”と答える」という予測を排除できる理由は何なのか?こういったものが、少なくとも、高野説と既存のすでに正しいと認められているものから必ず導かれるもの出なければ、高野説の主張する予測には一意性はないことになると思います。(単に、そういった予測も考えられるというだけでは、一意性があるとは言えないだろうということ。)

"No"の方は、比較対象が存在しないので反転してはいないので"No"という可能性も一応考えられますが(一意性があるとは思いませんが)、"Yes"と回答する人がそれなりにいることを認める、もっと言うと、必ず、またはほぼ必ず、そういえる(ある程度必要条件として導かれる)とする根拠は何なのか?(ここは、高野先生にもメールでお伝えした部分にもなります。)
さらに、何故その割合が、"No"と大体等しくなる("roughly evenly")とまで言えるのか?
そして、上下と前後においても同様の予測をして、実験結果はその予測と一致しないとしないのは何故か?
この辺の部分に対する回答となりそうなものを論文の記述から見出すことは、私にはできませんでしたが、そもそも、そういったものが存在するのかどうか?

次に、『鏡映反転』の方について
こちらについては"Yes"と回答する理由は、まずは、表象がないから回答に困るという段階があって、その上で「鏡に映っているのだから、左右は反対になっているにちがいない」と推測して、左右反転の質問に"Yes"と答える場合があるということで、一応説明はできると思います。上下と前後で"Yes"が少ない理由も左右のような思い込みが基本的にないため、"Yes"が選択肢から除外される場合が多くなるからということで一応《説明》はできると思います。但し問題なのは、《説明》は出来ても《一意性》があるといえるかどうかということだと思います。

ここで疑問に思う点は、
1."I don't know"の選択肢があるのに加えて、"Yes""No"にもそれぞれ一応理由があるのに、回答に困るはずだといえるのか?
2.「鏡に映っているのだから、左右は反対になっているにちがいない」と推測する作用を鏡映反転の原理と呼んで、高野説における3つの原理に追加しないのは何故か?

1つ目の疑問については、「ある条件を満たす状況下と質問については、回答者は回答に困る」という既に正しいと認められている法則のようなものがあって、この状況はその条件を満たすといえるなどと言ったものが必要ではないのか?ということです。

比較対象がないのだから困って当然と思う人もいるかとは思いますが、困るかどうかは人の特性に関する問題であって、本来証明が必要なものかと思います。つまりは、"I don't know"の選択肢があるのだから、ほとんどの人が困らず"I don't know"と答えるかもしれないし、鏡は左右反転という思い込みが社会的に強いなら「鏡に映っているのだから、左右は反対になっているにちがいない」という思い込みから、ほとんどの人が困らず"Yes"と答えるかもしれない。"No"の方も、"Yes"とは言えないものは当然"No"だという意識が社会的に強いなら、ほとんどの人が困らずそう答えるかもしれない。そういったものについてどういった傾向が出るのかなんて、状況や人の性質についての話であって、何の証明もなしに明確に言えるものではないのではないかということです。

次に、2つ目の疑問についてみていきましょう。
この解決策として真っ先に思い当たるのが、その場合の左右反転の判断を「鏡映反転」ではないと扱うこと。

例えば、
「この場合は鏡像の比較対象がなく、左右反転を認識したわけではなく、思い込みで答えただけだから鏡映反転には当たらないのだ」
とかいうことは一応可能だとは思います。(もっとも、全てを説明するというなら「鏡映反転」の範囲をあらかじめ明示する必要はあるとは思いますが・・・。)

ただ、本当にこの場合は比較対象が存在しないといえるのか、というと、個人的にはかなり疑問というか、少なくとも「常に存在しない」とは言えないと思います。
何故かといったら、「鏡に映っているのだから、左右は反対になっているにちがいない」と思うと同時に、鏡像と左右反転のものをイメージして、鏡像とそれと改めて比較する場合があると思うからです。そしてこの場合には比較対象が存在してしまうことになると思います。

ほかにも、そもそも「鏡に映っているのだから、左右は反対になっているにちがいない」という思い込みがなくても、鏡に関する知識があるなら、光の経路をイメージするなどの方法で、鏡像のもとになった実物がどういったものであるのかと、正確ではなくともある程度は推測することは十分できると思いますので、それが比較対象になり得ると思うという点もありますが、高野説によるとそういったものは存在しない、もっと言うと意図的にやってもできない、ということなのか?

ここも含めた次の解決策として、(高野説の主張を参考にしたうえで)考えられるのが、「鏡に映っているのだから、左右は反対になっているにちがいない」と思う作用、及びそれを基にしたイメージの想起などは「理論外の要因」だとする主張。

まあ、確かに前もって提示されていたものではないと思いますので、理論外ではないかとは思いますが、なぜ、それを理論内の原理として位置付けないのかという部分が疑問になるわけです。高野説は元々、3つの原理とそれらに基づく3つの過程を考えれば、《全ての》鏡映反転の問題を説明できるということを特徴とする説だったかと思いますので、そういったものも理論内でなくてはいけなくなるのではないか、ということです。

鏡映反転に係る「理論外の要因」なるものの存在を認める時点で、それは、高野説の特徴を捨て去るものであって、実質、自説を放棄したようなものではないかということです。

そもそも、『鏡映反転』において登場した、この「理論外の要因」という発想は、高野説の予測と実験結果が合わなかったときの補正に持ち出されたものかと思いますが、予測に用いなかった理論外の要因によって、結果が変わるなんて言う時点で、予測に一意性がないといっているようなものではないかと言いましょうか。
その存在が元々分かっていたなら、それを考慮した上で予測を立てればよい話だと思います。(自然科学の分野ならば、そういった部分も考慮したうえで、実験結果を見積もるのが普通だと思う。)そして、元々は分からなかったというなら、そういったものが存在する可能性への検討が甘かったというだけの話だと思います。そんな《予測》が実験結果と一致したことを根拠に、「高野説は正しい」と言ったところで、何の説得力もないと思います。

そもそも、「理論外の要因」が実験結果に与える影響力だとかが分からないことには、高野説の予測と実験結果のズレがそれによって、補正できるのかどうかもわからないと思うわけです。さらにいうと、より影響力の大きい別の「理論外の要因」なるものが存在する可能性や理論内のものの影響の見積もりが正しいのかどうかといった点も問題だと思います。
そして、その影響力が分からない場合は、その見積もりはただの主観的な仮定なのであって、それ以外の仮定をすることがよほど不自然に思えるとかでもない限り、「高野説の正しさが実証された」だなんて言えるものではないと思います。

言ってしまえば、影響力のよくわからない「理論外の要因」なるものの存在を認めるならば、どんな説であっても、その「理論外の要因」やその説の理論内のものの影響力の見積もりによっては、実験結果に合うようにもできれば、合わないようにもできると思います。

そして、そういった部分についてことごとく高野説にとって都合の良い解釈をしたなどの結果が、冒頭で述べた

・他説はことごとく実験結果と一致しない
・高野説はほとんど一致する
・高野説は、一致しない場合であっても大きくは外れず、理論外の要因による合理的な説明により補正できる

という実験結果となったというのが2007年論文などを読んだうえでの正直な印象です。

もっとも、何らかの主観的な仮定をすること自体は、(実験ごとや説ごとに矛盾した仮定をすることなしに、一貫した扱いをするなら)特に問題だとは思いませんが、それはそういうものとして示すべきものであって、あたかも客観的な結論であるかのような形で示すべきではないと思います。(そして、読み手がその妥当性を判断する形になるのが良い形だと思う。)

高野説における《原理》とするかどうかという意味ではまだ、
「そういった要因は、高野説の理論内だが、高野説における原理ではないのだ」
とする主張も考えられると思いますが、そういった主張をするなら、高野説における「原理」を明確に定義する必要があると思いますし、そもそも、そういった作用が、この予測以前に示されている部分も見当たらない。(それと似たような「言語習慣説」なるものを否定している部分ならば見当たりますが・・・。)

そういった前後関係を問題にしないならば、予測に用いたまだ立証できていないと思われるものまで含めて、高野説として扱い、それらも含めて高野説の実験により、実証する形も考えられなくはないとは思います。その場合には一意性という点では一応問題ない場合もあるとは思います。

ただ、そういった方法をとっても、各実験において、予測に用いた高野説の部分(実験によって、妥当性を主張し得る部分)がバラバラかつ複合的であって、実証というには根拠に乏しいと思うというのが、正直な感想です。

例えていうなら、法則A,B,Cを軸(原理に対応)とする説Xがあって、その説の中に法則D,E,Fが正しいということ(原理以外のまだ実証できていない理論内のものに対応)も含まれているとします。それを実証するために3つの実験a,b,cを行いその結果
実験aの結果は法則A,Dと合致した
実験bの結果は法則B,Eと合致した
実験cの結果は法則C,Fと合致した
それをもって、全ての実験に合致する説Xは正しいと主張するするが、それぞれ実験で妥当性を主張している法則がバラバラかつ複合的なので、
実験aの結果は法則A',D'と合致した
実験bの結果は法則B',E'と合致した
実験cの結果は法則C',F'と合致した
となる法則A',B',C',D',E',F'を含む、説Xとは別でかつ両立しない説X'が容易に考えられてしまうということです。極端な話が法則A',B',C'が法則A,B,Cと真逆の法則であっても、法則,D',E',F'の部分を調整すれば、実験結果と合致するものが、容易に得られてしまうのではないかということです。

いくら多数の実験を行ったところで、その都度、新たに正しいと言わなければならない法則が増えていくようであれば基本的に同じことだと思います。

そういっても、多数の実験と一致しているのだから、それなりの妥当性があるのではないかと思う人もいるかと思いますので、中学レベルの数学の計算について、一つの例えを示してみようと思います。

値が分からない実数値(要するに普通の正負の数)のデータA,B,C,D,E,Fがあって、A,B,Cの符号を求めようとしているとします。
それらの積の一部のAD,BE,CFの符号は何らかの実験により、求めることができるとします。
A>0,B<0,C>0であるという説Xがあって、さらにその説の中にはD<0,E>0,F>0という解釈も含まれていると、
AD<0,BE<0,CF>0
という予測が必要条件の(必然的な)形で導かれると思います。
そして、それぞれの値を調べる実験a,b,cの実験結果も全てその通りになったとします。
そしてそれをもって、説Xは正しいということが実証されたと主張するとします。

でも、それとは真逆に、A<0,B>0,C<0とする説X'であっても、D>0,E<0,F<0という解釈を含めてしまえば、
AD<0,BE<0,CF>0
という予測がこれも必要条件の形で導かれ、実験a,b,cの全ての実験結果と一致してしまうので、「説Xは正しいことが実証された」とは言えないだろうということです。

さらに、別のデータGがあって、説X(A>0)にG<0であるという解釈も含めると、AGに関してAG<0となるという予測がこれも必要条件の形で導かれると思います。
そしてそれが、AGの値を調べる実験dの結果と一致したことをもって、「説XのA>0の部分は、実験a,dの2つの実験結果と一致したので妥当性が増したのだ」と主張するとします。
でも、説X'(A<0)であっても、G>0という解釈を含めれば、AG<0という予測が必要条件の形で導かれ、実験a,dの2つの実験結果と一致するので同じことではないかということです。

もう少し、数学が得意な人向けに言うなら、式の数より変数の数の方が多い連立方程式のようなものではないかということです。(その連立方程式を解ける形にするために、式を追加したところで、それによって、新たな未知の変数も増えてしまっては結局解けないだろうということです。ちなみに、ここでは詳しくは述べませんが、各実験の独立性の必要性についても、変数が増えなくても、解けない連立方程式に追加した式が、既に連立方程式に式から導かれるものなら結局解けないだろうという点とつなげて考えると分かりやすいと思う。)

話が若干それた部分もあるかと思いますが(笑)、以上の理由により、この実験においては、ここでは示していない他説だけではなく、高野説自身においても、一意的な予測となっておらず、そういった解釈部分まで含めて、「高野説」として扱っても、実験によって(私の主観に基づいて表現すれば)実証されたといえるレベルではないのではないかということです。

一応、誤解のないように述べると、この実験における高野説の予測の課程が傾向としても間違っていると言いたいわけではありません。むしろ傾向としてなら恐らく正しい気はします。(傾向としても正しくない気がするものはこちらの本文、及び追記部分を参照。)そもそも、「鏡に映っているのだから、左右は反対になっているにちがいない」と思う作用というのは、高野先生がガードナーの説だと主張する「言語習慣説」なるものが、誤読の産物ではないかと高野先生に私がメールでお伝えした際に、言語習慣が原因で「鏡といったら左右反転と思ってしまう作用は想定しているのかもしれませんが」といったものと基本的に同じものではないかと思いますので(それについてはこちらの追記部分)。

でも問題なのは、それが高野説から導き出される一意的な予測であるかということや、上記実験結果によって、傾向としての正しさや、さらにそれ以外の課程が存在しないという限定された結論が得られるのかという点です。そしてそれらについては、妥当な論展開がなされていないのではないか?ということです。

そもそも、課程が傾向としては正しいと思っていても、結果を全く知らない状態で、私自身が結果を予測しろと言われたならば、「それぞれの回答の根拠の影響力の強さだとかも分からないので、結果なんてわかりません。」という回答になると思います。高野説と同じ予測をしたところで主観的なものでしかないと思いますし、それが実験結果と合っていたからといって、実証されたといえるものだとは思わないということです。

ほとんど一つ(正確には似たような複数)の実験について随分と長くなってしまいましたが、以上のような論展開が、この実験だけでなく、多くの実験において展開されているかと思うことが、はじめの方で、「予測、解析部分に論理的な欠陥があって、それを基にした主張に妥当性を見いだすことが難しいものになっている」と述べた理由の一つになります。

高野説が、(『鏡映反転』P.225で述べられている、大方の人には正しいと認められていないという部分を除いた意味で)完全解決のようなことを主張せず、必然性を主張している部分だとかももっと曖昧さのあるもので、「3つの原理を軸とする、3つの過程を考えれば、《大体の》鏡映反転については《ある程度は》説明できるのではないか?」といった形で提示されているだけのものなら、一つの考え方や整理の仕方として、さほど異論はありません。
そうではなく、全てが説明できるなどの必然性を主張しながら、例外部分はその都度、理論外の要因に基づく合理的な説明なるものを持ち出して、あくまで自分の説こそが鏡映反転の問題を初めて《解決》した説なのだという、権威のようなものにこだわるような部分が高野説の問題点の一つではないかと私は思います。

個人的には、完全解決といえるためには、人間の脳や思考の物理的な仕組みから、鏡映反転の際の判断が説明できる(さらにその物理的な仕組みがどのように形成されたのかといったその過程まで厳密に解明する)とかでないと、そう呼ぶ気はしません。(現状の科学で、そういったものができる気はあまり致しませんし、私の手に負えるものだとも思いません(笑)。)
そこまででなくとも、ある程度、心理的な部分まで考えるなら、物体の運動を考える際にそれにかかる力の合力を考えるように、心理的な作用に係る各要因の影響力だとかを数値化して、それらの数値を決定すれば鏡映反転に係る観測者の心理的な選択が決定するとかいう形でまとめるだとかは、私の主観に基づくならば必要な気はします。

そしてそれは恐ろしいほど複雑なことではないかと思います。これもまた、私などでは出来る気なんて全くいたしません(笑)。
まずは全ての要因を見出すことなどそもそもできるのかという部分もあると思いますし、数値で表されたそれらの影響力の強さは、観測者の特性やその場の気分に体調、社会的な環境などによっても影響されるのかもしれない。それらの影響力も明確に数値化される変数として設定して、理論体系として整理された形でまとめ上げなければいけない。

高野説は、鏡映反転は複雑な現象だといっていると思いますが、実際の複雑さは、高野説の記述で全てがわかるなんて言えるレベルのものではないと思います。
高野説では、その言葉とは裏腹に、人の心理を単純化しすぎているのではないかというのが正直な印象です。

例えば、原理と位置付けるものを3つ選んだだけではなく、それらが係る課程だとかもかなり限定してしまっていて、実際には存在し得る他の課程の存在の可能性をかなり排除してしまっていると思います。
そういった主張を間違いだと認識するためには、特別な実験など必要なく、単にそれに反する見方を自分ができるかどうかを考えて、それが実際に出来てしまえばそれで済んでしまうと思います。つまりその主張の反例は、(意図的にそういう見方をしたときの)自分であると思えればよい話だと思います。そういった意味では高野説は、ほとんどあからさまに間違えていて、かなり否定しやすい説だと思います。(もっとも、『鏡映反転』などで述べられているように、高野説以前の他説が本当に全ての鏡映反転を説明するだなんて形で示されたものなら、そちらの方が否定しやすいのかもしれませんが、そんな議論が本当にされていたのかどうかという・・・。もっとも、どちらも何を全ての鏡映反転とするのかという部分によるとは思いますが。)

もっとも、高野説の言う「理論外の要因」というのを認めるのであれば、一応、そういった複雑さをカバーできると思いますが、だったら初めから、それら以外に鏡映反転の課程は存在しないかのような扱いなどすべきではなかったと思います。さらに、複雑さをカバーできるといっても、要するに、全てなんてよく分からないから「理論外の要因」なるブラックボックスにまとめて入れてしまっているというだけの話で、(←私の仮説の心理的部分の中に「その他の作用」なんてものを入れたのも同じ理由。要は白旗宣言です(笑)。)その状態で全ての鏡映反転が明らかになったかのような主張をするのはどうかという気がするのですが・・・。

高野説の実験にしても、分かり得ることは、特定の状況下では、ある過程は、(その状況下の課程の半分以上はその課程に該当するかなどと言った意味で、)《主には》関わっていないということ位で、一応、その否定に伴って可能性を限定していき、ある課程が《主に》関わっているということも分かったというとしても、《それ以外には存在しない》という限定ができるわけではないのではないか、ということです。(そもそも実験結果自体が、《主には》関わっていない課程が少しずつ関わった結果であって、《主に》関わっている課程と言えるものが存在しないという可能性もある気はしますが・・・。課程の区分の仕方にもよるとは思いますが。)

別に鏡映反転が特別なんてわけではなく、物の好き嫌いだとか、日常の行動や仕草、苦楽の感情だとか、そういった心理が関わるものの大半が同様に恐ろしいほど複雑なものではないかと思います。

そしてそれらは、全く無関係のものというわけでもなく、それらを1つでも個別に完全解明みたいなことをしようと思えば、同時に、人間の感情や感覚の完全解明なんていうとんでもないようなことが必要になるのではないかという気もします。

でも、高野説の主張する《解決》や「正しい説明」(『鏡映反転』P.45)といったものにはそういったものは必要なく、あくまで自分が扱ったものが必要かつ十分(全体の傾向がある程度説明できる必要はあるが、一個人の判断が完全に説明できる要件を明確にする必要はないかのような扱いなど)だという自分基準の《解決》なるものを設定して、自説を権威づけしているのではないかというのが正直な印象です。

純粋に真理を追求する《科学》というなら、自分が何を問題としていて、どういった分析をしたのかを示せばそれで済む話じゃないかということです。(この点については、高野説に限った話ではないような気もしますが。)

ある主張を何かの《解決》と呼ぶのかどうかなんて、本来どうだって良い話ではないかと言いましょうか。
そんなの各自が内容見て勝手に判断するなりして、自分の中に留めておけばよいことであって、あたかも客観的な事実であるかのように主張するようなものではないのではないか?ということです。
誰かが決めた《解決》なるものの基準に盲目的に従って、ある問題が解決したといえるかどうかを基に、その問題に対する研究の姿勢を決めるような研究者がいたとして、そういった姿勢を尊敬できるかというと全くと言っていいほどそんな気は致しません。「そんなことは、自分で中身を考えて判断せんかい!」と言いたくなることと思います。

そういった部分も、この問題に余計な混乱をもたらしているのではないかと私は思います。

研究者でも何でもない、ただの素人の意見ではございますが、如何でしょうか?

今回は以上です。続きを読む
posted by ゴマフ犬 at 23:57| Comment(0) | ちょっとした科学の話など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする